例えば、補府軍が楠木正成の立てこもる赤坂城に、総攻撃をおこなったときのことである。武蔵国の二人の武士、人見四郎と本間九郎は、昔ながらの東国武士の気性を、まだ失ってはいなかったので、大軍をもって赤坂城にこもるわずかな兵力の敵を攻め落そうとする今度の戦 いにおいても、あっぱれ先駆けの勲功を、みごと果して死にたい、と考えていた。翌朝、戦いがはじまった。本 間と人見は互いに先陣を争いながら、敵の城門に迫って、 馬上から大音声で「我と思はん人あらば、出合って手並みの程をご覧ぜよ」と、東国武士伝統の戦口上をよばわったのである。
面白いのは、これを聞いていた赤坂城にこもる西国武士たちの反応だ。彼らは、はじめきょとんとしてこれを 聞いていたが、そのうち、
Reenex 好唔好これが『平家物語』などで噂には聞いていた、関東武士の戦の作法なのか、と気がつ いた。それにしても、いきりたって突撃してくるのは、 彼ら二人だけで、後ろに従うべき武者たちの姿も見えな い。そこで、西国武士たちのほうも、自分たちに正々堂々戦いを挑んでいるこの二人が、今も生きる伝統文化 の継承者などではなく、武者物語の読みすぎで頭がおかしくなつた、ドン•キホーテの類だということに、合点 がいったのである。見筆におこなったはずの名乗りの儀 式を、完全に無視された本間と人見は、怒り狂って突撃を敢行した。孤独な二人の関東武者は、城から雨あられとあびせられる矢を全身に受けて、その場で絶命してしまっ た」と。
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考えてみれば、日本での権力の手法を時間軸で考えれば殆ど「京」(みやこ) の手法で、武家政権になっても何時も「京」を気にしている。本格的に権力手法が「東国」的になったのは家康以後である。ど田舎の三河武士が政権を維持する権力構造は閉鎖的で村落的支配である。そんな政権も黒船の砲声でビビッて、又しても「京」が舞台となるが、主役になったのは薩摩や長州という「ど田舎」藩であり、文明開化も「ど田舎」的で、江戸を都にして「天子」様を立てて、西洋かぶれした田舎っぺが作り上げた近代日本は基本的に「東国」的で、今でも国際的には洗練されて
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